ひとり言

アーリーリタイアの罪の意識について

みんなが毎日働いているのに自分だけ何もせず暮らしていると、ときどき無意識に浮かび上がってくる、申し訳ないという気持ち。ふと現れるこの罪の意識は、文化的、道徳的に埋め込まれた教育のせいかもしれない。働かざるもの食うべからず。

でもそれは明らかな間違いと言うことは、理性的に考えてわかる。製造業の経営者をやっていて常々感じていた。材料(=天然資源)を消費して作る製品は、環境に悪影響を与えるプロセスを経て、さらに環境を悪化させるため最終製品のために使われる。私たちの仕事のどこにも幸せは存在せず、利益、お金、日々の生活のために働くだけにすぎない。

人々の生活は科学技術によってより安価に、便利になってきた。しかし、安さと便利さを追求しすぎたために、いまむしろ人々の幸せを踏みにじっている。不便さを理解し、足ることを知り、人と比較せず、何も作らず小さく生活することが、個人の幸福に近く、地球環境に悪影響を与えないのではないか。

現代の人々は無宗教と言うが、科学技術を信仰している。科学技術の進歩は全てを救うどころか、何も救いはしない。マルクス・ガブリエルはぶっ飛んでいて暴論にも聞こえるけど、一面に真理を突いていて、私たちはもっと賢くならなければいけない。

行動する、流れる、と言うことはとても大切で、淀む、停滞することは良くないことが多い。でも、行動することがすべて善ではなく、物事すべて裏表あることに気づかなくてはならない。仕事をして何かを生み出すということ、それは人々の欲望をより巨大化させるために、ただ経済を回すために行われているのかもしれない。

そういったことを考えつつも、平日の日中、カジュアルな服を着て外にいると、無意識に罪の意識がこみあげてくるのを止めることができない。