今日、ひとりで映画「ドライブ・マイ・カー」を見てきました。村上春樹の原作は読んでないし、濱口竜介監督の他の作品も見ていないので、間違った解釈もあるとは思いますが、僕なりの映画の感想です。ちなみに3時間の長編もものともしない佳作でした。
喪失と罪の意識、そこからの再生は…ない
家福とみさきは、身内を失った喪失感と罪の意識を胸に秘めています。亡くなった身内は、普通なら離婚案件、児童相談所案件になっておかしくない、ひどい行為を家福とみさきにやっていました。しかし彼らは相手にそこを責めません。それどころかその行為にまっすぐ向き合ってこなかったと言って、さらに自分を責めます。
二人ともその場とどまって救いを求めていない。表面的に「君は悪くない」と言って肩を抱くこともないし、なんなら「君は母を殺した」とまで家福はみさきに言ってのける。劇最後に「ずっと苦しみました」と言わせて、死んだ後にのみ平和な日々が待っていると続ける。
亡くなった相手への一方的な強い思いは独りよがりのようにも感じられます。しかし一方で、自分自身に目を向けること、現実をあるがまま見つめることに言及します。「他人の心を全てのぞき込むことは出来ない。自分の心を掘り進んでいく」「音さんがやってきたことに隠されたことなんてない。知っていることそのままがリアル」。もう存在しない人に囚われたら、そこから復活するにはそうするしかない。でもそれが物語の主軸になることはありません。沼の底でじっと身を潜めている二人。
まじめな家福と不適合者高槻
何ごとも生真面目な家福と対照的に、高槻は女とすぐ寝るわ、すぐ喧嘩するわ、とにかく社会不適合者丸出しです。性格も薄っぺらい感じがほんのり出てるし、最後は劇をぶっ壊して去っていきます。しかし、音さんへの理解という意味では、むしろ高槻のみ把握している部分があったりする。長年連れ添った家福も知らない音さんを高槻は理解している。現実世界の面白さ、生理的嫌悪と、理解しあえない二人。
家福は、音さんと寝た高槻をあえて劇の主役に抜擢する。そこに、犯罪者の子供を養子に取る三浦綾子の「氷点」を思い出しました。その判断にやましい思いはなかったか、もしくは変に崇高な思いに駆られていなかったか。抜擢を裏切るように、高槻は劇をぶち壊します。そして家福がそれを引き取ります。因果応報。
サーブ900の立ち位置
映画タイトルは訳すと「私の車を運転して」となる。車も愛車というくらい、自己を投影する対象だったり、比喩的に自分そのものにもなりえる。この映画における自動車、サーブ900がどういう意味を持っているか考えてみたんだけど、どうも意味が見えてこない。移動の手段、主人公たちが会話する場所、深く考える場所、くらいにしか思えない。
極端な話、北海道に行くのが電車であっても、日々の移動がタクシーでも、ベンツSクラスでも、映画の内容を壊さないんじゃないかと思いました。車のシーンは決して少なくないだけに、クルマ好きとしてはもう少し、サーブ900ならではの何かを見てみたかった気がします。