以前、老いていくことは、単なる状態の変化で、そこに優劣はないと理解していた。ところが実際老いてくると、疲れやすくなったり、体調が戻らなくなったり、目がかすんだり、それが改善されることが見込めない点において、不可逆な一方向の悪化ではないかと思うようになってきた。
「〇〇ができる」のと、「〇〇ができない」ことは等価なのか?
例えば、若くて車の運転ができることと、老眼で目がかすんで運転ができないのは等価なのか。運転ができる人は、運転することもできるし、しなくてもよい。そこには二つの選択がある。運転できない老人は、選択の余地がない。できないの一択だ。老化は身体の状態の変化とは言っても、どう見ても等価ではない。若いほうがいい。
お金があれば、たくさんのものが買えるし、いろんな経験もできる。もちろん必要最低限で質素な暮らしをする自由もある。お金がなければ、欲しいものがあっても、質素な暮らしをするしかない。みんなお金持ちになりたい。お金持ちと貧しい人が単なる状態の違いにすぎない、とはどうも考えられない。
選択できる自由は幸せなのか
現代は、選択肢があればあるほど、自由の度合いが広ければ広いほど幸せにつながると信じて発展してきた。職業の自由しかり、恋愛の自由しかり、地元の商店街で決まった商品を買うのではなく、アマゾンで無数の商品の中から検索して安くて良いものを買うことしかり。しかし、無数の選択肢を提示されて、そこから一つを決めなくてはならない、判断しなくてはならないというのは、途方もなく面倒で、苦痛なことではないだろうか。スティーブジョブズやマークザッカーバーグが毎日同じ服を着ているのは、どうでもいいことに意思決定の時間と労力を使いたくないからという話は有名だ。
選択の自由があるということは残酷なときもある。他方を希望しても得られない場合だ。20代で子供が欲しい夫婦が子宝に恵まれなければ絶望するだろうが、40代の夫婦では早々にあきらめるだろう(いまは違うみたいだけど)。若いイケメンを横目に見ながら、チー牛(暗くて目立たない陰キャ)は、親ガチャに絶望するしかない。若いということは可能性の塊でもあるが、現実はえてして壊滅的に絶望的なことが多い。老人は可能性自体ないので、すぐにあきらめがつく。元気な老人たちは生涯現役とか言ってるけど。
つまり「〇〇できる」=無数の選択肢を提示されていること、それを選ぶ自由があることは、幸福とイコールではなく、むしろ苦痛の原因となる。「〇〇できない」=選択肢がないことは、苦痛の原因そのものが取り除かれている。
仏教の「第二の矢のたとえ」
悟った人でも病気をすれば痛みを感じ、美しい花を見れば美しいと思う。つまり感覚や感受性は同じ(第一の矢)。悟っていない人は、病気になれば絶望し、美しい花を見れば手に入れたいと執着する(第二の矢)。悟った人は、第一の矢は受けても第二の矢は受けない。
なぜ第二の矢を受けるのか?病気に絶望するのは、健康になれるからであり、花に執着するのは手に入れられる可能性を信じているから。老化して致命的な病気になり、あとは死ぬだけなら、病気に絶望することもない。そもそも崖の向こうに咲いている花なら手に入れようとも思わない。そこには選択可能性と諦めが対比している。
老いることは悟りに近づくことだ
仏教では、悟りへ導く四つの真理として、①苦諦…生きることは思い通りにならないと理解し苦しみと向き合う、②集諦…苦しみの原因は執着した煩悩にあると理解、③滅諦、④道諦…八正道の実践、偏りがない正しさ=中道の実践、がある。
老化するということは、まさに遠く長い「諦め」の日々。ひとつひとつできないことが増えていき、記憶と経験にさよならを告げる。できなくなったことができるようにはならない。従容と現実を受け入れるのみ。老人は第二の矢は受けない。逆に若い人はできることが多く、可能性にすがってしまうために迷いと妄執の中にある。若さと老化の価値逆転はここに成った。
一切皆苦…人生は思うとおりにならない
諸行無常…すべては移り変わる
諸法無我…すべてはつながりの中で変化している
涅槃寂静…あらゆる現象に一喜一憂せず、心が安定した状態になる