ひとり言

何歳まで生きていたい?

写真は家族みんなで食べた天竹のふぐちり。79歳になった父親は、会うたびに寿命が延びていく。昔は80歳、85歳、90歳、こないだはついに95歳まで生きたいと言っていた。うちの弟もできるだけ長生きしたいから健康に気を使っているそうだ。それで弟から「何歳まで生きたい?」と質問されて答えに窮した。

何歳まで生きていたいか?というのは、死にたくない・死ぬのが怖い、という恐怖とは別の問いであるべきだと思う。父親は、年とって体が動かなくなってきて、感覚も鈍くなるから、何をしても幸せを感じるレベルがとても狭くなっていると言っていた。それなら長生きしたところで、生きる実感を味わえないから余計に長寿の意味ないんじゃないかと思う。単に生きながらえたい、苦しみたくない、死にたくない、という動物的な生へのしがみつきじゃないかとも思える。

そういった根源的な死への恐怖を抜きにすれば、生きていて何かやりたいことがあるわけじゃないし、無目的にだらだらしてるだけだから、いつ死んだってかまわないという話になる。乗りたい車も乗れた、海外にもたくさん行った、おいしいご飯も限りなく食べた、あり余る時間を謳歌した。ここから先、これを体験しなければ死ぬに死にきれない、というものが思いつかない。もし3か月後に死にますよって言われても、ホスピスで医療麻薬たくさん打ってもらい、フワフワした状態で痛くも苦しくもなければ、それもいいかなと思ってしまう。

漢の劉邦は53歳で流れ矢にあたり死の床につく。后が探し出した天下の名医も断った。「一介の庶民である私が天下を取ったのも天命であり、いま死期が迫っているのも天命だ。いくら名医であってもこの天命だけはどうすることもできない」。論語に「死生命あり、富貴天にあり」と。人間の生も死も、貧富、貴賤もすべて天命であって、人間がどうこうできないものだ。

今の自分の気持ちに一番寄り添ってくれるのは仏教のような気がする。一切皆苦。諸行無常。諸法無我。涅槃寂静。仏教をもっと身近にしてみようかと思う。行こう行こうと思っていた坂東三十三か所参りも全く動けていない。頭でっかちに理論で理解するのではなく、行動して一生懸命に祈ることから始めたいと考えてます。