読書・評論

暇と退屈の倫理学

退屈というのは本当に厄介者だ。つい昨日までのんびりとした時間を気分よく過ごしていたかと思ったら、今日はその予定のない空き時間が退屈で仕方ない。特に僕みたいに無職で何もやることのない人間にとって、暇をどう潰すかというのは重要な日常業務になる。定年退職したおじさんたちもやることを探すのが大変だろう。

僕と一つしか年齢の変わらない東大の学者が「暇と退屈の倫理学」という本を書いている。弛緩的厭世的な退屈論というよりは、攻撃的積極的に持論を組み立てていて、明らかに彼は忙しく暇でもないし退屈もしていないだろうな、という雰囲気がただよっている。そもそも本を一冊書ききる気力と能力があれば、暇で退屈するなんてことはないに違いない。

この本の結論は、ハイデガーの第二形式の退屈、つまり気晴らしと退屈がからみあった生活がいいよね、ということになっている。これは例えば、退屈の気晴らしに過ぎないパーティを心から楽しむということ。加えて、贅沢をしっかり味わうのがよろしい。パーティで提供された葉巻やお酒を醒めた目で眺めるのではなく、しっかり楽しんで味わうこと。この生活は投げやりだけれど安定と均整がある…

退屈から逃れるために、事件や熱意、決断をもって何かを成し遂げる、こういった退屈の解消法については作者は否定的だ。なぜならこれは逃避で、熱中することで自分をだますことになり、一周戻ってきてまた同じことになるだけだから。忙しくて時間に追われたり、虚無に落ち込む根源的な退屈に陥ることなく、退屈な日々を退屈と思わないようにうまくやり過ごすことがいいらしい。

僕の日常は、何かに熱中することもないし、退屈と気晴らしの繰り返しなので、作者の理想とする生活に近いんじゃないかと思うんだけど、もちろんそう言ってくれることは嬉しいんだけど、何にも救いになっていない気がする。例えば、サーキットで走る、旅行をする、これはまさに気晴らしで、やってる最中はもちろん楽しいけど、帰宅したら退屈な人生が再開するだけだ。退屈に耐えつつ、気晴らしを楽しんで時間をやり過ごすというのは、ぼんやりとした不幸の中を生きるようなもので大変なことだろう。古い有閑階級(=貴族)が持っていたとされる「品位ある閑暇」の過ごし方、というものをぜひ教えてもらいたいと思った。

退屈の起源として、定住生活をあげているのはとても興味深かった。農耕以前の狩猟生活は退屈を感じなかったかというのは少し疑問があるけど、今の自分は、この場所に住み続けることに内心うんざりしていたし、退屈な日々に新鮮な空気を求めていたから、そう喝破してもらうことで引越しについて前向きに、重い腰が1cmは動いたような気がする。