読書・評論

青年団のKOTATSUを見た。

平田オリザの青年団の舞台、KOTATSUを見た。はじめ見たときはつまらん舞台だなと思った。外国人の脚本家が典型的で表層的な日本像をうわべであしらってるだけ。ストーリーも発散して、それぞれが関係することもなく、見ていて話に集中することができない。終わった後、拍手をしながらいまいちだなと、周りを見ても適当に拍手をする人ばかりだと思った。

しかし一晩寝て頭が少し整理されたのか、劇中、周りから話せ話せと言われ続けても、最後まで沈黙を貫き通した社長の宏、自分の経験からそれが正しい選択ではないかと感じたときに、この舞台の世界観がガラッと変わった。

黙っていることが日本の美徳かもしれないが、みんなが社長の声を待っている。今こそ話すことが必要だと俳優に語らせているが、経営者というのは責任があるからこそ黙ることしかできない。ギリギリの建前でやりくりしてる元旦の集まりで、酒に酔って本音をぶちまけては場を白けさせる人がいる。それなのに本音で話すことがいいことなのか。アメリカと日本に住む姉妹の単純な二項対立も、その単純化こそが忌むべきことであるとの戒め。事故で亡くなった人の賠償と会社倒産の危機には誰も一生懸命なのに、身近な人が経済的に苦しいという時に、動物的直感で金を貸せばいいんだろと、人の心を踏みにじる発言。日本的情緒をくさしている風に見えて、実は賛美している。

元旦と広い和室にこたつ、日本舞踊、ワム!の「ラストクリスマス」…陳腐な「日本」が並べ立てられているけれど、それは何も表していない。唯一あるとすれば中心にあるこたつ。こたつだけがちぐはぐな全てを飲み込んで、こたつ布団の中にすべてをしまい込んでしまうブラックホール。

日本文化というのは、床の間に飾られた水石から立ち上る、見えない盆栽を想像して愉しむという、究極の分かりにくさ、同じ文化、知識レベルを共有していなければ理解できないものがあるとするなら、今回の舞台「KOTATSU」もそれを狙ったのではないかと思った。でも脚本はフランス人なのでどうなんだろう・・・